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立石塚


立石塚



立石という地名の由来となった「立石塚」が祀ってある公園です。


INFORMATION

住所 葛飾区立石8-37-17
Tel
営業時間 参拝は常時
例大祭

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公園内掲示板より

立石は、那珂川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。
石材は千葉県鋸山周辺の海岸部で採集された、いわゆる房州石で、最大長約60センチメートル、最大幅約24センチメートル、高さ約4センチメートルが地上部に露出しています。もともとは、古墳時代の石室を作るためにこの地に持ち込まれた石材と考えられます。

一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い地名で、岐路や渡河点などに設置された石標にちなむとされています。この立石のある児童遊園の南側、中川に接する道路は、墨田から立石、奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線に通じており、平安時代の古代東海道に指定されています。そのため、この立石は古代東海道の道標として建てられたと考えらえます。

江戸時代後期以降、立石は寒さで欠け、暖かくなると元に戻る「活蘇石」として、『江戸名所図会』などの地誌類に多く記載されるようになります。立石が玉石垣で囲われるようになったのは文化年間(1804〜1818)以降で、その周辺には梛や小竹が繁茂する、社叢(しゃそう)を呈していました。

『雲根志』には、立石が高さ2尺(60.6センチメートル)程度であったとされていますが、御神体として祀られて以降、風邪の煎じ薬や、愛石家のコレクションとして人々に削り取られて行きました。また、御守として戦場に持参したという言い伝えもあり、その結果、現在の高さに至っています。

なお、大正12年には人類学者の鳥居龍蔵がこの地を訪れ、石器時代人が信仰のためか、墓標として建てたものと結論づけています。その後も中谷治宇二郎、大場磐雄ら考古学者により、先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として取り上げられてきました。
東京低地における古代の交通史、近世以来の民間信仰をうかがいしることができ、日本先史時代の研究上重要な遺跡です。

   淡之須神社骨董市実行委員会