「こころがまえ」


私には年に何度か本を送り合う親友が幾人かいる。そのうちの1人が昨年末忘年会で会った際に伊集院静氏の『琥珀の夢』という本を頂戴した。

サントリー創業者である鳥井信治郎をモデルにした伝記的小説だ。友人「お前みたいな後継ぎ息子は絶対に読んだ方がいい!」と強く勧められた。

読んでみると面白くて止まらない。鳥井信治郎の「やってみなはれ」の精神はこうして生まれたのかというのがよくわかる。また、修業をしていた自分の身に置き換えて考えることもあり、今更ながらこの本を先に読んでいればという思いに駆られてしまう。

私も今まで数多くの本を読んできたが、あるシーンで人生初めての面白い読書経験をしたのでここに記す。

そのシーンとは、自分の店を開業し、業績を伸ばしていった信治郎が丁稚を探すため、元奉公先の小西儀助の元に相談に訪れた際、儀助の元で奉公している下女がお茶を持ってくる場面だ。その箇所を以下に引用する。

 

儀助は言ってお茶の碗を上げた。

「おう、これは美味い。よういれたある」

儀助が言うと下女は顔を赤らめて下がった。

「鳥井はん、いや信治郎はん。あんたはん賄いのトメを覚えてるか?」

「へぇ~い。覚えてま」

「あの子はトメの孫や・・・・・・」

「たしかトメはんは京都の宇治の出身やったかと」

「よう覚えてんな。ほんの少ししかここにいいへんかったのにあんたはんの頭はどないようできたあんのや。そうや、宇治の近在の生まれ育ちや。トメの家の者は先々代から店(うち)へ奉公に来てもろうとる。店が出す茶が美味いと評判でそれだけでお客はんが寄ってくれはる時もあった。トメの娘も店にいっときおって、嫁へ行き、あの子を産んだんや。あの子にお茶のいれ方を教えたんはトメのはずや。信治郎はん、人に働いてもういうことは、そういうことや。店中(たななか)で教えてもろうて、鍛え上げてもろうても、それだけやったら、ほんまもんの働き手にはなれん。わかるか?」

「はあ・・・・・・」

信治郎が儀助を見た。

「いっとう肝心なんは、“ ここ ”や」

と儀助が胸を叩いた。

「こころや。こころがまえや。お客はんに、毎日汗水流して働いとる奉公人に、美味しいお茶をいれて飲んでもらいたいと、三代の女子が懸命にやったら、そら美味いやろう。これがお茶と違うて、商いやったらどないなる?こない強い働き手はおらんで」

「はあ、ええ勉強させてもらいました」

 

この場面で私も信治郎同様、儀助に商人としての考え方を勉強させてもらった。そして、面白いことに気づいた。

皆さんは最後の儀助のセリフの「こころがまえ」という平仮名をどう漢字に変換しただろうか?

おそらくたいていの方は「心構え」と変換したはずである。

しかし、私の頭は、これを読んだ瞬間、「心が前」と変換してしまった。もちろん間違った変換であるが、私にとってこの変換は必ずしも間違いではないのではないかと思った。

旦那が懸命に奉公する人たちに対して心からお世話すること・育てること。つまり「心が前にあること」、「心が先にあること」の重要性。それは働いている人たちがお客様に対して「心が先にあること」へ繋がる。この「心が前」という考え方を持つことが何よりの「心構え」なのだと。

伊集院氏がこの「こころがまえ」を平仮名で表記していることに凄く意味を与えているように思えてならない。これは小説を読む楽しさだ。私はこの小説で初めてこの楽しさに気付いた。

この小説全体からみたら他愛もない一場面であるが、この私の気付きを読んで、少しでも『琥珀の夢』に興味を持っていただけたら、望外の喜びである。

 

手焼き煎餅(せんべい)神田淡平 6代目

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